ピアニストというのは、プロのピアニストという意味ではなく、発表会でもなんでも「人に聴いてもらえる状況でピアノを弾く人」を指している。
私はよく考える。
音楽は、演者の力量によらず、「音楽そのものの良さ」を内包しているのかどうか?
ピアノ曲は、誰かに演奏されなければ人に認知されることができない。では、演者の力量と音楽の良さは切り離せないものなのだろうか?
仮にこの世のピアニストが全員下手だとしたら、ショパンの音楽は「良くない音楽」だと評価されるのだろうか?
私は、演者と音楽の良さは切り離せると思っている。つまり、演者が下手であろうと上手であろうと、音楽の価値には何の影響も及ぼさない。
例えば、ハリーポッターが面白いと思ったとする。
活字で印刷されたハリーポッターでも、幼稚園児の字で書かれたハリーポッターでも、内容が同じであるならばハリーポッターの面白さには変わりがないはずだ。
活字で印刷されたハリーポッターは面白いけど、下手な字で書かれたハリーポッターはつまらないな、とはならない。
表現したい内容は、その内容自体に良し悪しを内包しているのであって、「どのように表現されるか」は全くの別問題で、無関係なのである。
ピアニストの力量がどうだろうと、音楽自体に内包される良し悪しは不変である。
では何のためにピアニストがいるのだろうか?
誰がどう演奏したところで音楽の価値が変わらないのであれば、誰が演奏しても同じだし、ロボットが演奏しても同じということになる。
ピアニストの役割は、伝えることだと考える。
前述した通り、音楽は人の手を介さなければ世に出ることができない。それがどういう音楽であるかを世の中に伝えるのがピアニストの役割だと考える。
幼稚園児の字で書かれたハリーポッターは、いかに素晴らしい内容だったとしても人に伝えるには障害がある。
同じように、いかに素晴らしい音楽だったとしても、下手な演奏では「素晴らしい姿」で世に出ることができない。
ピアニストの役割は、各ピアニストが考える「その音楽に対する評価」を、なるべくそのままの姿で人に伝えることだ。
「7割は素晴らしいけど、3割はちょっと微妙」とピアニストが考えたならば、「7割素晴らしくて3割は微妙だな」と聴き手に伝えられるかどうかがピアニストの力量だ。その場合は「10割素晴らしい!」と聴き手が思うようではまだ未熟だということだ。
「機械が奏でる音楽は味気ない」と評される理由はここにあるのではないだろうか。機械は音楽に対しての評価を持たないからである。(※)
※私はそう思わない。粒を揃えて~とかミスしないように~などと練習するがその行き着くところは完璧な演奏をする機械である。人間的な温かさを出すなら粒が揃っていない方が人間らしい。そして人間が機械らしさを目指す反面、機械(DTM)の世界では人間らしさを出すためにあえて和音の発音タイミングをずらしたりすることが行われているので、一体音楽とは何を目指しどこへ行き着きたいのか謎である。
※そして音楽自体に良し悪しが存在するため機械であろうと人間であろうと聴いている音楽に差異はない。ただ伝わったか、伝わらなかったか、それだけの話である。
この記事は私の考えであって別の考えを持つ人を否定する意図はない。
電車で移動時間にバーッて書いたのでよくわからないかもしれませんがすみません。