クリスマスですねv(^o^)v
クリスマスといえば、もちろんこの曲ですネv(^o^)v
いや~書いてたら長くなったので読むときのBGM代わりにどうぞv(^o^)v(という体の宣伝ですネ)
てかこの曲、今頃なら世界的クリスマスソングになっていてもおかしくないほど超絶やんごとなき神曲と思ってるんですけど、なんで再生数11なんでしょう?おかしい…。世界的クリスマシストのすずか先輩が送る渾身の1曲なのに…。YouTubeのバグに違いない…。
私はツェルニーをやっているし、今後もやり続けるつもりだ。
こう聞くと、「大人になってからもテクニックを磨こうとするモチベの高い人」みたいに思うかもしれないが、まるきり逆だ。
私はピアノに対する情熱がなさすぎるがゆえに、ツェルニーをやっている。
まず、私は昔から疑問に思っていることがある…。
ピアノというものは練習した曲しか弾けるようにならないのでは?ギターのようにCDEのコードを覚えたらCDEのコードで構成される曲なら何でも弾けるようになる、というものではないと思う。(コード弾きはまた別として)
そんな性質をもつピアノにおいてツェルニーをやることに何の意味があるのだ?
「ツェルニーでテクニックを身につける」の意味がわからない、というか実感できたことがない。ツェルニーを練習してもツェルニーが弾けるようになるだけなのではないか?
練習した曲しか弾けない。ピアノとはそういうものだと思っている。
だって、私が超~~~~~~~~~~~~頑張って英雄ポロネーズを弾けるようになったとしても、それより簡単なエリーゼのためにを弾こうと思ったら、またエリーゼのために用の練習が必要になるやん?
何か弾きたい曲があるなら、ツェルニーじゃなくてその曲をやらないと弾けるようにはならないと思う。
そしてただ純粋にテクニックを身につけたいなら、例えばトリルならひたすらトリル、オクターブ連打ならひたすらオクターブ連打を千本ノックした方が、ツェルニーより効率的だと思う。
まあ、ツェルニーから何も学べないほど私にピアノの素養がないだけなのかもしれんがな…。ピアノの素養のある人ならツェルニーから何かを学べるのかもしれない。ツェルニーで育ったピアニストも大勢いるわけだしな。
ともかく、私はツェルニーでテクニックを身につけるという考え方に対して懐疑的だ。
にも関わらず今もやっているし、やめるつもりは今のところない。それはなぜか?
それはズバリ、私には好きな曲、弾きたい曲がないからだ。
一つの曲を自分なりに完成させる…その大変さは、ピアノをやっている人なら誰もがわかるはず。
まず譜読み…わけのわからん和音や意味不明な難しいパッセージも出てくる。指番号も決めないといけない。譜読みに多大なる時間を費やして、ようやくなんとなく弾けるかなというレベルになったら次はめくるめく仕上げ地獄…。弾いても弾いても思う通りの表現ができない…ミスがなくならない…次から次へとやってくる課題…。そこまでやってようやく自分なりの完成ができる…か、どうかもわからない…。泥沼…。
いや、ピアノ弾きってドMすぎじゃね???マジで…。
しかしそんな大変さも好きな曲や憧れている曲であれば、絶対に弾きたいという強い思いがあれば、乗り越えられる…のだろう。
そして私には残念ながらそういった曲がない…。弾かなければ弾かないで平気だし、好きな曲もなく、そんな苦労も乗り越えようと思えるモチベーションがない…。
「大人なら好きな曲を~」という風潮がある。でも好きな曲って何?てかなんでみんな好きな曲とかあるの?
そういった風潮に乗ろうとして、「好きな曲や憧れの曲を作ろう」と努力していた頃もあった。でも、しょせんそんなものは作られただけの偽物の感情…。結局「難しいなら別に弾かなくていいや」を越えられない。
対してツェルニーはハードルが低い。譜読みは楽だし、仕上げといっても音楽のテンプレート(右手のトップを出すなど)を習得するといったことは要求されるが、繊細な音色コントロールやら、作曲家の背景を考えてアレコレやらは必要ない。早く指を動かすのは楽しくもある。
何より、練習曲なので、別に下手でもいい!!!!だって練習だから!!!! 絵でいうと「クロッキーは練習なのでうまく描く必要はない」というヤツだ。 (ピアノブログで絵を例えに出す愚かさよ)
そんなわけでツェルニーは精神的に楽なのだ。気軽に取り組めるのだ。ストレスを感じずに「ピアノを練習している」という実績としてカウントできるのだ。
言うなれば現実逃避であって、(いわゆる)曲に取り組むにあたって直面しなければならない数々の困難や、自分の下手さを目の当たりにする辛さからただ逃げているだけなのだ。
だから私からしたら(いわゆる)曲に積極的に取り組もうとしている人が輝いて見えるし、純粋にすごいと思うし、尊敬する。あとドMだと思う。
もちろん、私のように不純な動機ではなく、ツェルニーに真面目に取り組んでテクニックを身につけようとしている人もしかり。ドMだよね。
そもそもモチベや意識の高さというのは練習時間や練習内容だけではかれるものではないと思う。練習をサボりがちだったとしても、YouTubeで演奏動画を見たり、ショパコンをチェックしたり、ピアニストのCDを買ったり、選曲をあれこれ悩んだり、色んな作曲家のことを知ったり、そうやってピアノに関わっていこうという意志にモチベ、というか情熱を感じて、いいなぁと思う。私だったら自主的にやろうと思わないので。100万円くれるならやるけど。
本題終わり。
なんか意味のある考察記事っぽいタイトルなのに中身ただの反省文ですみません。
さらに反省文度が増したぐだぐだ語りパートv(^o^)v
てかな~~~↑で書いたことも含め、自分という人間、中身なくね??(ピアノと関係ねぇ)
いやでもまじで逃げ癖はダメですよ。最近「逃げてもいい」ということがよく言われてるような気がするがそれは本当に命の危険がある場合など例外的な、緊急回避的なものであって、基本逃げたらダメと心得ないと私のようなダメ人間に仕上がりますよ。つってもそんな逃げまくってるの私ぐらいか…。
まあそれはいいとして…。
そもそも私は「何かができる」というスキルは身につけたいが、そのスキルを使って何かをしたいという欲に欠けている。これは昔からそうだし、ピアノに限らずあらゆることに対してそうだ。
「ピアノがうまくなりたい」と思うが、うまくなって何か弾きたい曲があるかと問われれば別にない。「絵がうまくなりたい」と思うが、うまくなったところで描きたいものはない。「ゲームを作りたい」と思うが、作りたいゲームはない。
絵の世界にもデッサンや、直線や立方体を描くなどの基礎練習はある。そして絵の世界にも「基礎練習はつまらないので描きたい絵を描きましょう!」みたいな風潮はある。だが描きたい絵と言われてもそんなものはないから逆に困る。それこそ「好きな曲」みたいに「描きたい絵」を無理やり作って、さも「私はこれが描きたいんだ!!そうだ!!そうに違いない!!」と自分を騙すしかない。そんなんするより、立方体をひたすら描けと言われる方が遥かにいい。
「うまくなることは目的ではなく手段だ」は、絵にしてもピアノにしてもよく言われること。が、私にはうまくなる以上の目的がない。その先の目的がない。うまくなれればそれで満足。(何か弾いたり描いたりしないとうまいかどうか判断できないじゃん、というのはおいといて)
そもそも絵を描きたいな~と思ってまず絵の練習方法をググる時点で、本当は絵を描きたいと思っていない。絵に限らず。本当にやりたければググる発想に至る間もなくやり始めているもの。
私は当初はゲーム音楽を作りたいと思ってDTMを始めたのだが、だからといって曲の作り方なんて勉強してない。作りたい、だから作った、ただそれだけのこと。SoundCloudには私が今まで作った曲が191曲アップされているが、DTMを始めてから191曲作るまでの10年間(ぐらい。たぶん)、音楽理論やコード理論など一切勉強していない。ただ「曲を作りたい」→「曲を作った」という流れがあるだけ。必要に応じてミックスとかマスタリングのやり方とかを調べたりしたぐらい。心からの「やりたい」ってそういうことだと思う。ていうか10年でたった191曲って少ねーな。
だから「何かがうまくなりたい」って思って練習やら勉強から入るのって、しょせん内から突き動かされる衝動とは違ってどうしても作り物の感情感が否めない。「どうしても美少女が描きたい!!!!」みたいな本物の情熱をもってる人には勝てない。
てかな~~~~~今まで「内から突き動かされる衝動」なんて抱いたことあったか??
仮に明日から毎月1,000万振り込まれることになって、やりたいことを何でも自由にやってもいいという状況になったとしても、じゃあやりたいことって何だ??何すればいいんだ??ってなる。たぶんそんな状況になってもピアノも絵もゲームもやらないと思う。(自由すぎると何していいかわからなくなる心理とは別で)
「趣味に義務感をもったらいけない」とか「趣味なのだから楽しまないと」って風潮があるけど、逆に義務感を持たずに趣味を続けられるということの方がわからない…。ピアノにしても何にしても「義務だと思え」「仕事だと思え」「やらねばならないのだ」って奮い立たせるからなんとか続けられてるものもあるわけで。やりたいという気持ちだけに任せていたら私はたぶん何もやらないで終わる。だって「やらなくてもいい」なら「やらない」よね??普通??そうじゃないの???
本当に好きなことも、本当にやりたいことも何もないんだなぁと実感する。
見た目はいい大人なのに…
中身は何もないただ見せかけだけの人間…
ただ、日本という国の賑やかしになっているだけの存在…
それはまるで…
料理のかさ増しに使われるだけで…
中身がほとんど水分のもやしのように……。
そう、私は来世を待たずとも既にもやしだったのだ…………。
~完~
※もやしにも栄養はあります。
追伸:ちょっと私、前々からずっと流行らせたいと思っている言葉があるんですけど、よかったら皆さんも使ってみてください。
例文)「わぁ~街がイルミネイティブ~♪」
ぜひ、明日の街を見て使ってみてくださいv(^o^)v