「ソナタアルバム」は、もう一生この曲集だけ弾くのでもいい!と思えるほど大好きな曲集である。
古典派のソナタというジャンルが私の心に大ヒットなのである。
とりわけモーツァルトは今最も私の中でアツい。噛めば噛むほどモーツァルト、もう弾けば弾くほどモーツァルトの魅力にどんどんハマっていってしまう。
モーツァルトのソナタは2番と7番だけでなく、他のもやりたいし、コンプリートといわずとも8割ぐらいはやりたい。
なんなら今後のピアノ人生、モーツァルトのソナタだけでいい!!と思えるのである。
しかし…
それを教える先生はどう思うのだろうか?
モーツァルトというのは、演奏者のテクニックが露わになる作曲家でもある。16分音符は粒を揃えて、テンポは一定に保ち、淡々とした片手だけのフレーズも多く、ペダルも控えめにしながらも美しく聴かせなければならない。
上手い人のモーツァルトは美しいが、下手な人のモーツァルトは音楽にすらならない…。
ロマン派やチャイコフスキーなどの情緒的な曲は、もちろんモーツァルトに比べて簡単であるという意味ではなく、和音の響きやペダルの力によって、下手な人でも「なんとなく音楽らしい形になりやすい」という側面があると思う。
そして私は下手である。下手という表現が引っかかるかもしれないが、要するに「テクニックがない」ということである。
テクニックがない生徒が、テクニックが要求されるモーツァルトばかり弾きたがったとしたら、先生に負担をかけてしまうのではないか?
今、ソナタ2番をレッスンしてもらっていて、言われたことがテクニック不足により全然反映できなくても、先生は繰り返し根気強く教えてくださっている。先生という立場で、大人の対応をしてくださっている。
でも内心は…どうなんだろうか。
発表会が終わって、やっと下手な人にモーツァルトを教えることから解放されたと思ったら、「今度もモーツァルトやりたいです。てかできればずっとモーツァルトやりたいです。No Mozart, No Life」と宣言される…それってかなり負担なのではないか?
音大を目指している人や、上手い中高生なら、自分の指導によってぐんぐん上手くなっていくから、モーツァルトを教えていても楽しいかもしれない。
でも私はしょせん未来のない下手な大人の生徒…それならば、教える側だって「趣味の人に教えてる」と割り切って、色々な曲を教えた方が楽しいのではないか?
でも…少なくとも今はモーツァルトをやりたい。「独学でやれば?」と思われるかもしれないが、独学でモーツァルトを形にできる自信は全くない。それに、言われたことを全然反映できないとしても、モーツァルトの弾き方、フレーズの意味や解釈などを今の先生に教わるのがとても楽しい。モーツァルトにはまった要因として、先生の存在もかなり大きいのだ。
モーツァルト道を突き進むべきか、否か…。発表会が終わったら次の曲どうするか聞かれると思うので、そこまでに決断しなければ…。
※「先生はお金もらって仕事でやってるんだから生徒は気にしなくてよい」みたいなことは言いたくない。
モーツァルトは個人的に基礎の集大成みたいなものだと思う。音階やアルペジオ、スタッカートやトリルなどの基礎を磨かなければ、話にならないかもしれない…
新井達也さん、コメントありがとうございます!
それとても同意です。シンプルだからこそ、基礎ができていないととても聞き苦しい演奏になってしまいますよね。